窃盗症論1 1審で心神耗弱が認定された窃盗症の一例
村松太郎 (慶應義塾大学医学部精神神経科)
(2023.2.22.)
本稿は窃盗症論2と一体を成すものである。
起
1
窃盗症(クレプトマニア Kleptomania)の一例を報告する。Case TLと呼ぶ。
2
Case TLは1審で心神耗弱10)、2審で完全責任能力20)、最高裁から差し戻され30)、差し戻し審で再度完全責任能力と認定された40)事例である。各審級を通して、窃盗症の責任能力を論ずるうえで示唆に富む論考が展開されてきた。
3
筆者は本件に1審の段階から鑑定人としてかかわってきたので、本件の全情報を把握しているが、本稿の記載内容は次の2つの情報源からのものに限定する50)。
・各審級判決文
・公判廷で開示された内容60)
4
TLは以下の5-14(①-⑩)のような人物である。いずれも窃盗症に典型的に見られる特徴である。
5
① 中高年の女性 70)
窃盗症の疑いということで精神鑑定の対象となる被告人の多くは中高年の女性であり、TLもその例にもれない。
6
② 中流以上 80)
窃盗症の疑いということで精神鑑定の対象となる被告人の多くは中流以上、すなわち経済的には恵まれた生活を送っており、TLもその例にもれない。
7
③ これまで万引きを繰り返してきた 90)
TLは少なくとも5年以上にわたり毎日のように窃盗を繰り返しており、その回数は千回以上にのぼると述べている。
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④ やめたいと強く思っているがやめられない100)
それなのに店に入ると窃盗の衝動に抗えなくなるのが窃盗症である。但し必ずしも犯行時に主観的に「衝動に抗えない」と意識されているわけではない。つね日ごろは窃盗はもう絶対にやめたいと思っているにもかかわらず、店に入るとあるときに窃盗をしてしまう。そのときの気持ちは本人にも説明できないことが多い。
9
⑤ 万引きはそれなりに合理的な態様 110)120)
合理的な態様とはすなわち、万引きに際し、周囲をうかがうなどし、捕まらないように工夫をしていることを指している。
10
⑥ 窃盗以外の触法行為なし130)
したがってTLは決して反社会的な人物というわけではない。
11
⑦ 盗んだ物は、ため込む、捨てる、ごく一部は使う 140)
これが窃盗症の最大の特徴で、単なる窃盗犯との大きな、そして質的な違いである。TLも盗品の多くを自宅の冷蔵庫に入れたまま腐らせ、結局は捨てている。
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⑧ 犯行に先行してしばしば何らかのストレスがある 150)。
13
⑨ 摂食障害を合併している 160)
一般に、摂食障害に窃盗を伴うことは少なくない。それを摂食障害の一症状とみるか、それとも窃盗症の併存とみるかは、現代の医学界に明確に確立した見解があるとは言えない。ただ事実として両者が合併することが少なくないのは確実である。
14
⑩ 犯行の記憶の一部は失われている 170)
解離性健忘である。
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以上が典型的な臨床像である。注90-170)に記した通り、①から⑩のほとんどは診断基準の記載に反映されている180)。
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DSM-5の窃盗症Kleptomaniaの診断基準は次の通りである。冒頭のA基準が窃盗症診断の中核である。
DSM-5 312.32 窃盗症 Kleptomania
A. 個人的に用いるためでもなく、またはその金銭的価値のためでもなく、物を盗もうとする衝動に抵抗できなくなることが繰り返される。190)
B. 窃盗に及ぶ直前の緊張の高まり。200)
C. 窃盗に及ぶときの快感、満足、または解放感。210)
D. その盗みは、怒りまたは報復を表現するためのものではなく、妄想または幻覚への反応でもない220)。
E. その盗みは、素行症、躁病エピソード、または反社会性パーソナリティ障害ではうまく説明されない。230)
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A基準の「個人的に用いるためでもなく、またはその金銭的価値のためでもなく」とはすなわち、不合理な窃盗であり、窃盗症患者は「盗むために盗む」のである。これがクレペリン以来、窃盗症について精神医学で伝統的に認識されている本質的特徴である240)-280)。
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A基準の後半、「物を盗もうとする衝動に抵抗できなくなることが繰り返される」は、端的には、「やめるべきなのにやめられない」ということである(DSM-5の原文ではこちらが前半である: Recurrent failure to resist impulses to steal objects … )。「やめるべきなのにやめられない」は、嗜癖addictionに一致する特徴である290)300)。
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A基準は窃盗症診断の中核であるとともに、必須項目である。もちろんDSM-5を厳密に適用するのであればAからEのすべてを満たす必要があるが、臨床的にはB, Cは診断の必須項目ではない。上記14にすでに記した通り、犯行時の記憶が失われているケースがしばしばあり、その場合はB, Cは確認できないからである。
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精神鑑定での診断においてもB, Cが必須でないのは当然である。DSM-5は診断基準というものの本質を理解したうえで適切に用いれば、法廷でも活用することができるが、そもそもは法廷での使用や法律の領域での使用を目的とするものでないから、診断基準の文言をそのまま使用するのは活用ではなく流用である310)。我が国の裁判実務でもDSMを厳格に診断に用いるなどという愚行はなされていない320)。
21
もっともTLにおいては、本件犯行時について一部記憶の欠損があるものの、窃盗行為の前の緊張感と窃盗直後の満足感があることは確認でき、DSM-5の窃盗症の診断基準を満たしていた。
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なお、TLは摂食障害も有しているが、本件窃盗への摂食障害の影響はない。これが窃盗症をめぐる他の裁判事例と異なるTLの顕著な特徴で、本件は窃盗症そのものの責任能力が法廷で検討された、我が国で最初の事件であると言える330)。
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精神障害の診断とその精神障害の犯行への影響。この二つは精神鑑定において必ず検討すべき事項である。すなわち、精神鑑定では通常、第1のステージとして、対象者が精神障害者であるか否かが問われる。第2のステージとして、その精神障害の犯行への影響の①有無、②程度、③機序が問われる。TLについて裁判所から命じられた鑑定事項もこの通りであった。
図1

図1. 精神鑑定の3ステージ.
第1ステージ: 精神障害の診断; 第2ステージ: 精神障害の犯行への影響; 第3ステージ: 責任能力の決定. これらのステージは精神鑑定の嘱託事項に対応している。図では精神医学の領域をブルー、法の領域をピンクで示してある。通常は嘱託事項は第2ステージまでであるが、時には「理非善悪を判断し、同判断に従って行動する能力」などの文言が鑑定嘱託書に記されることによって、実質上第3ステージまでの記述が鑑定医に要求されることもある。「ステージ」としたのは、精神鑑定および精神鑑定に基づく法的論考は、その作業過程においては、必ずしも第1→第2→第3の順に整然と進行するものではなく、各段階を往還しつつ進行することに基づく。また、責任能力自体は完全に法の領域にあるが(したがって図ではピンクで示してある)、責任能力判断までに至る精神障害の影響については精神医学的論考が必須であり 340)、したがって「精神障害の犯行への影響」と「責任能力の決定」を結ぶ部分は精神医学と法の両方の領域にかかっていることを、この図ではブルーからピンクへのグラデーションで示してある。(グラデーションがかかっているのは「責任能力の決定」の直前までである)
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「精神障害の犯行への影響」を考えるとき、この問いは「精神障害の症状の犯行への影響」に変換される。たとえば妄想性障害の被告人が症状として被害妄想を有し、殺人を行ったとき、「精神障害の犯行への影響」という問いは、「妄想性障害の症状である被害妄想の殺人への影響」という問いに変換される。このとき、「症状」と「犯行」は截然と区別される。
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これと同様に窃盗症において、「精神障害の犯行への影響」という問いを「窃盗症の症状である窃盗の窃盗への影響」に変換すると混乱に陥る。なぜなら、「窃盗症の窃盗への影響は?」という問いは、一見すると循環論法で意味をなさないようにも感じられるからである。
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妄想性障害と窃盗症を対比すると図2の通りになる。
図2

図2. 精神障害の犯行への影響: 妄想性障害と窃盗症の対比
左: 妄想性障害の症状が被害妄想である。妄想性障害の人物により犯行、たとえば殺人が行われたとき、被害妄想の殺人への影響の①有無②程度③機序が検討されることになる。
右: 窃盗症の症状が窃盗である。窃盗症の人物により犯行、たとえば窃盗が行われたとき、窃盗の窃盗への影響は、妄想性障害と同じような手法で記述することは不可能である。
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だが「窃盗症の窃盗への影響は?」という問いが意味をなさないように感じられるのは、言葉だけで抽象的に考えようとすることに起因する混乱である。
28
この混乱は2つの要素から成り立っている。第一は、「診断名=症状」 (「診断名イコール症状」と読む)であることから発生する混乱である。第二は、「症状=犯行」(「症状イコール犯行」と読む)であることから発生する混乱である。
29
第一の「診断名=症状」であることから発生するについて。たとえば、アルコール依存症の飲酒への影響を考えてみる。
30
飲酒をやめるべきなのにやめられないのがアルコール依存症である。
このとき、「飲酒したことへのアルコール依存症の影響」をどう考えるか。
31
もちろんここでいう「飲酒」とは、ある特定の1回の飲酒である。アルコール依存症である人物における、ある特定の1回の飲酒である350)。
32
アルコール依存症の人物があるとき飲酒した。その飲酒にアルコール依存症の影響がないという人はいないであろう。アルコール依存症の人物が飲酒したとき、その飲酒がアルコール依存症の影響によることは明白である360)。
33
同様に、窃盗症である人物が窃盗をすれば、その窃盗が窃盗症の影響によることは明白である。
34
この事情は、「窃盗症」というときの「窃盗」とは、これまで繰り返されてきた不特定の窃盗を指しているのに対し、「窃盗への影響」というときの「窃盗」とは、特定の窃盗すなわち「The窃盗」を指している、と説明することもできる。
35
このように、症状がそのまま診断名になっているものは精神疾患の中には多数存在する。
うつの症状があるからうつ病。
パニック発作があるからパニック障害。
過食があるから過食症。
強迫症状があるから強迫症。
妄想があるから妄想性障害。
など、枚挙にいとまがない370)。
36 (精神障害の犯行への影響 ①有無)
かくして、「窃盗症の窃盗への影響は?」をめぐる混乱として28に挙げた第一、「診断名=症状」から発生する混乱はクリアされる。診断名がそのまま症状名であるとき、診断名に含まれている症状名は、症状に当然に影響している。それは決して窃盗症に限ったことではない。
37
但しそれは、「窃盗症は窃盗に影響があった」と言えるという限度のクリアである。精神鑑定の第2ステージである「精神障害の犯行への影響」のうちの、①有無がクリアされたにすぎない。まだ②程度と③機序が残っている。この二つはかなりの難問である。
38 (精神障害の犯行への影響 ②程度)
②程度は、「病気の症状への、病気の影響の程度」を問うていることにほかならない。
39
「病気の症状への、病気の影響の程度」という問いは、普通は成り立たない。たとえば、「インフルエンザの症状への、インフルエンザの影響の程度」という問いは滑稽であろう。
40
滑稽でもあえて答えるとすれば、「100%」ということになろう。病気の症状は、病気の影響に決まっているからである380-400)。しかしそれでは精神鑑定としての答えにはならない。
41
そこで、TLの鑑定においては「病気の重症度」に着目した考察を行った。結論だけを先に述べれば、「重症であれば、影響は大きい」というものになる。
42
「病気の症状への、病気の影響の程度」は、上記40の通り「100%」がシンプルな答えであるが、そうは言っても、病気が軽ければ、症状を自分の意思で止めることができる場合がある。
43
インフルエンザの症状としての咳を考えてみる。インフルエンザに罹患している患者であっても、咳が出そうになったとき、自分の意思で咳が出ることを止めることができる場合がある。但しインフルエンザが重症であれば、止めることは不可能か、少なくとも著しく困難である。
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アルコール依存症の症状としての飲酒を考えてみる。アルコール依存症患者であっても、飲酒しそうになったとき、自分の意思で飲酒することを止めることができる場合がある。但しアルコール依存症が重症であれば、止めることは不可能か、少なくとも著しく困難である410)。
45
こうした事情は多くの病気に共通している420)。「病気の症状は病気の影響による」のは言うまでもなく当然である。そして「病気の症状は病気の影響が100%」と言うことも不合理ではない。しかし、「病気の症状であっても自分の意思で止めることができる場合がある」のである。そして、その「止めることができる」「程度」は、病気の重症度によって決まると言いうる430)。
46
TLにおいては、「盗みたい」という衝動を満足させること以外は、窃盗することによる本人にとってのメリットはほとんどなく、逆に逮捕・刑事訴追を受けるという大きなデメリットがあり、しかもそうしたリスクを被告人は認識しているにもかかわらず窃盗の衝動を抑えられず、そしてこれまでの窃盗は少なくとも5年以上毎日のように行われ、回数は千回を超えている。これらの事実から、TLの窃盗症は重症であると言える。
47
以上のように考察し、TL鑑定書の「犯行への影響」についての結論部分には次の通り記した:
被告人の窃盗症が重症である以上、「影響の程度」について回答するとすれば、「著しく強い影響があった」と言うべきであろう。
48 (精神障害の犯行への影響 ③機序)
「精神障害の犯行への影響」の「③機序」もまた難問である。これは、窃盗症においては「症状=犯行」であるという、28で挙げた第2の点と密接に関係している。
49
前掲図2(26)に示したように、たとえば妄想性障害において、被害妄想という症状があり、殺人という犯行がなされたのであれば、症状の犯行への影響の機序は、「被害妄想のため対象者に対する恨みを持ち殺害した」などと説明することが可能である。しかし「症状=犯行」である窃盗症においては機序は説明できない。イコールは端的にイコールだからである。
50
だが「説明できない」は不正確な表現で、正確に言えば、妄想の犯行への影響を説明するのと同じ手法では説明できないということである。
51
そこで、法が要求する「機序」の説明とは何かということを考えてみる。それは責任能力判断のための資料としての医学的説明である。妄想という症状による犯行への影響の機序は、典型的な機序の説明であるが、精神障害のすべてが妄想の影響と同じような手法で説明できるわけではないし、そうすることが必須というわけではない。
52
したがって「医学的説明」というものの原点に還る必要がある。
53
それは医学的な病気のメカニズムの説明ということになろう(メカニズムと機序は同義だが医学ではふつう「病気の機序」という言い方はしないのでここではメカニズムと記す)。
54
それが責任能力判断に関係するかしないか、それは法の領域の問いであり、精神科医が自発的に口を出すべきことではない。メカニズムを示し、あとは法に委ねるのが鑑定医としての正当な姿勢であろう。
55
すると窃盗症のメカニズムを、現代の医学で示せる限度において示すことが求められていると解することができる。
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窃盗症というものが存在する以上、窃盗症には原因となるメカニズムがあり(ここでは以下それを原因X; エックス と記す)、その原因Xが本件窃盗に影響をしているのか、しているとすればその程度と機序がいかなるものであるかが、裁判所からの問い2③機序への誠実な回答ということになろう。
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再びアルコール依存症に目を向ければ、アルコール依存症という疾患には、人に飲酒をやめられなくする脳内メカニズムが存するのであるから、「アルコール依存症の飲酒への影響」という問いに対しては、同メカニズムの飲酒への影響が回答されなければならない。同メカニズムはかつては全く不明で、原因Xとでも呼ぶべきものであったが(倫理道徳的な問題であると考えられていた時代もあった)、現在ではドーパミン系の異常であることが強く推定されている440-460)。
58
窃盗症においても事情は基本的に同じである。但しアルコール依存症に比べて窃盗症の医学研究の歴史は浅く、いまだ原因Xの段階にとどまっている。
59
他方で窃盗症を倫理道徳的な問題であると考える人物も存在するであろう470)。この点、アルコール依存症が疾患として認められるまでと同様の歴史を後追いしていると見ることもできる。
60
なお、窃盗症において推定されている脳内の原因の一つとしてもドーパミン系の異常が推定されているが、アルコール依存症に比べるとまだまだ十分な根拠があるとは言えない480)。
61
また対象行為が犯罪であることがアルコール依存症との違いである。これは窃盗症についての考察を撹乱する事情で、犯罪を非難する思いや更生を望む思い等が、「当該行為への原因Xの影響」という問いの医学的・科学的な考察をしばしば歪めている490)。
62
倫理的な判断をしないことが精神鑑定の倫理である。すなわち「犯罪を非難する思いや更生を望む思い」は、精神鑑定では排除しなければならない。これは被告人がいかなる精神障害を有していても、また、いかなる犯罪を犯していても不変の倫理であるが、窃盗症では特にこの倫理を意識しないと、医学的・科学的な考察が容易に歪むことになる。
63
かくして、Case TLの、機序について述べることができるのは、次のような無味乾燥な一文にとどまると私は判断し、鑑定書の2③機序についての結論部分に記した500)。
本件犯行は、窃盗症に想定される、衝動制御の障害という脳機能障害の現れであるという説明が可能である。
64
この鑑定書を私は2019年3月19日付けで東京地裁に提出し、2020年3月4日、東京地裁で鑑定人尋問が行われ、ほぼ鑑定書の内容通り証言した。弁護人はほぼこの鑑定意見にそった主張を展開した。
承
65
Case TLの1審では心神耗弱が認定され、懲役4カ月(求刑は1年6カ月)の判決が下された510)10)。
66
1審判決文から引用する:
被告人は、窃盗罪で訴追され、窃盗を繰り返せば更に窮地に陥ることが分かっているのに、衝動を抑えられていない。被告人は、窃盗症の治療に精力的に取り組んでいたところ、前件の控訴が棄却されたことにショックを受け、本件時には心身の状態が非常に悪くなっていた。被告人が本件犯行時の記憶がないと述べている点も、そのストレスによって解離性健忘に陥った可能性が高い。被告人の窃盗症は重症である。
窃盗症においては、窃盗行為自体が精神障害といえるものであるから、被告人の窃盗症が重症である以上、犯行への影響は著しく強かったと言うべきである。
鑑定意見をほぼそのまま採用した判示である。
そして「責任能力判断」にあたる部分の1審判決文は次の通りである:
重症の窃盗症により、窃盗行為への衝動を押さえる能力は著しく低下していた疑いがあり、行動制御能力は著しく減退していた合理的疑いが残る。そうすると、被告人は、本件犯行当時、心神耗弱の状態にあったと認めるのが相当である。
(「押さえる」は原文通り)
このようにして1審では心神耗弱が認定された。
67
我が国の窃盗症についての過去の判例では、大部分が完全責任能力と認定されている。ごく一部例外的に心神耗弱・心神喪失が認定されたものがあるが、いずれも合併症の影響を重視あるいは加重したものである520)。
68
本件は摂食障害を合併しているが、一審裁判所は責任能力判断において実質上窃盗症のみに着目しており、その意味では、窃盗症によって心神耗弱が認定された我が国初の事例であると言える。
69
検察官はこの判決を不服として控訴した。
転
70
2審では心神耗弱は否定され完全責任能力と認定された530) 20)。
71
2審は1審判決の、「重症だから心神耗弱」という論法を批判している。
2審判決文から、1審に対する批判部分を引用する:
原判決が認定するように、被告人が本件犯行時に重症の窃盗症にり患していたのだとしても、そのことから当然に、被告人の行動制御能力が著しく制限されていたということにはならないのであって、そのような精神障害によって被告人の行動制御能力がどのように制約されていたのかということを、当該事案に即して具体的に検討する必要があるというべきである。しかるに、原判決は、その説示するところによれば、被告人が重症の窃盗症にり患していたとの認定事実から、直ちに、窃盗行為への衝動を抑える能力が著しく低下していた疑いがあると即断し、行動制御能力が著しく減退していた合理的疑いが残ると判示するものであり、事案に即した具体的検討を行った形跡は見受けられず、その判断手法は不合理というべきである。
72
つまり病気が重症だから心神耗弱ということにはならない、ということで、これは当然である。
73
図3は図1 (「起」23)の再掲である。「精神障害の診断」から始まり、責任能力判断を視野に入れた「精神障害の犯行への影響」を示すことが精神科医(鑑定人)の仕事である。それを受けて責任能力を判断するのが裁判所の仕事である。このとき裁判所は、鑑定人が示した「精神障害の犯行への影響」に基づいて、それを法的な観点から検討し、責任能力についての結論を出さなければならない。すなわち図1のブルーからピンクへのグラデーション部分を検討することこそが裁判所の本務であるが、TL1審裁判所はこの本務を怠り、鑑定人の結論を責任能力判断に直結させた。それがTL2審の指摘である。
図3

図3. 精神鑑定の3ステージ. (再掲)
責任能力自体は完全に法の領域にあるが、責任能力判断までに至る精神障害の影響については精神医学的論考が必須であり、したがって「精神障害の犯行への影響」と「責任能力の決定」を結ぶ部分は精神医学と法の両方の領域にかかっている。
74
1審判決文に「事案に即した具体的検討を行った形跡は見受けられ」ないという2審からの指摘はその通りである。但し2審判決文の記述のうち、「被告人が本件犯行時に重症の窃盗症にり患していたのだとしても、そのことから当然に、被告人の行動制御能力が著しく制限されていたということにはならない」という指摘は、それ自体は当然に正しい指摘であるが、1審の判示への正当な批判になっているかどうかについては議論の余地がある。なぜなら1審は、上記66引用の通り、「重症の窃盗症により、窃盗行為への衝動を押さえる能力は著しく低下していた疑いがあり、行動制御能力は著しく減退していた合理的疑いが残る」と言っているのであって、つまり2審が指摘するように「重症の窃盗症、ゆえに行動制御能力が著しく障害されていた」と言っているのではなく、「窃盗衝動が強度、ゆえに行動制御能力が著しく障害されていた」と言っているのである。この二つは言葉の表現上の違いにすぎないと見るのが自然のようだが、別の見方もあり、それについては「結」で論ずる540)。ただいずれにせよ1審判決文に「事案に即した具体的検討を行った形跡は見受けられ」ないのは事実であるから、その限りにおいて、2審からの批判は正鵠を射ていると言えよう。1審判決書からは1審が図3のグラデーション部分の仕事をした形跡が読み取れないのである。
75
しかし2審の判示が正しいのはここまでであって、2審が対案として示した論考は、少なくとも精神医学的には完全に誤っている。判決文から完全責任能力認定根拠部分の記述を転記する:
(犯行時の被告人の行動の客観的事実を示した後に)このような犯行状況に照らすと、被告人は、窃盗を行うという衝動に突き動かされてやみくもに万引きをしたというのではなく、周囲の状況を確認し、犯行が発覚しないよう注意して行動するとともに、万引きする商品を選別し、商品の一部を精算して、通常の買物客を装うことを念頭に置いた行動をとっていたものと認められ、これは、被告人が、周囲の状況によっては窃取行為を思いとどまろうとしていたこと、さらに、買物かごに入れた商品の一部については盗むのを思いとどまることができたことを示すものといえる。
76
すなわち2審が完全責任能力を認定した主たる根拠は、TLが①「窃盗を行うという衝動に突き動かされてやみくもに万引きをしたというのではな」い、なぜなら②犯行発覚を防ぐための合理的な努力等をしている、したがって③状況によっては窃盗を思いとどまることができた、というものである。
77
2審のこの判示は、被告人が健常者であるのであれば標準的な認定手法に基づく妥当なものと言いうるが、被告人が窃盗症である以上、精神医学的観点からは全く失当なものである。2審裁判所は窃盗症という病態についてその基本的なレベルで全く理解していないと判断せざるを得ない。
78
①については、衝動制御症(窃盗症を含む)の衝動とは「やみくも」とは無関係の概念であるから全くの的外れである。
「起」の9および注110)に前述の通り、窃盗症の万引きはそれなりに合理的な態様を取ることが決して例外的ではない。これは窃盗症という病態、さらには現代の精神医学において「衝動制御症」に分類されている障害のきわめて重要な点である。これについては『窃盗症論2』の「起」で再訪する。
79
「②犯行発覚を防ぐための合理的な努力等をしている」も、同様の理由で全くの的外れである。
80
「③状況によっては窃盗を思いとどまることができた」は、「状況によっては」その通りであるかもしれないが、本件犯行時の状況とは別の状況を仮定して論じているにすぎず、本件についての論考として成立していない。
81
高裁がこのように医学的にも論理的にも荒唐無稽な判示をするとは信じ難いことであるが、高裁は上の点のみならず、何ら事実の取り調べをせずに1審判決を事実誤認だとして破棄し自判するという、刑訴法400条但し書きの明白な違反さえ犯していることからみると、例外的に逸脱した裁判官が担当したために発生した事故と言えるのかもしれない550)。
82
当然に弁護人が上告し、当然に最高裁が2審判決を破棄し高裁に差戻した560)30)。
結
83
差戻審は、完全責任能力と認定し、TLに懲役8ヶ月の判決を下した570)40)。被告人は上告せず、この判決が確定した。
84
判決書で差戻審は、非常に画期的な判示をしている。それは窃盗症について、さらには責任能力論について、新しい地平を切り拓く序章の始まりを予感させるものであった。
85
責任能力についての結論部分の判決文は次の通りである:
本件犯行時の具体的な犯行の経緯や態様等に照らせば、被告人は、本件犯行当時、窃盗症にり患し、そのために窃盗に対する衝動が強い状況にあったとはいえても、行動制御能力は著しく減退していなかったものであり、完全責任能力を有していたと認められる。
86
上記結論は2つのパートから構成されている。第1は、「被告人は、本件犯行当時、窃盗症にり患し、そのために窃盗に対する衝動が強い状況にあった」である。第2は「行動制御能力は著しく減退していなかった(すなわち完全責任能力を有していた)」である。
87
第1部分は診断と重症度に対応している。TLが重症の窃盗症であることは本件の各審級を通してどの裁判所も一貫して認定している。本差戻審ではさらに踏み込んで、窃盗症の重症度とは、窃盗の反復性と異常性から衝動制御障害の程度を判断するという手法が正しいと認定している580)590)600)。
88
精神鑑定ステージ(本稿「起」の32)という観点から見ると、上記第1部分は、第1ステージ: 精神障害の診断と、第2ステージ: 精神障害の犯行への影響に対応し、第2部分は第3ステージの結論部分に対応している。
図4

図4. 精神鑑定の3ステージと本件差戻審結論の対応
判決書の結論部分から読み取れるのは上記の通りである。言うまでもなく責任能力が論点となる裁判における最大の関心事は図のグラデーション部分すなわち「精神障害の犯行への影響」と「責任能力の決定」を結ぶ論考である。(グラデーションがかかっているのは「責任能力の決定」の直前までである)
89
「起」の50で述べた通り、第2ステージ: 精神障害の犯行への影響の①有無、②程度、③機序は、窃盗症においては、他の精神障害、たとえば統合失調症や妄想性障害についての論と同じ手法を適用することはできない。そこで、「②程度」の評価については重症度を主要な根拠とし、「③機序」については衝動制御の障害という脳機能障害の現れであると言えるにとどまるとTLの1審裁判所に提出した鑑定書に私は記載した。本差戻審でも私は法廷で同趣旨の証言を行った。
90
この証言について、判決書には次の通り要約されている:
M医師は、当審において、以上に関連して、窃盗症が犯行に与えた影響を論じることは、困難あるいは不可能であり、窃盗症の窃盗への影響というと、言葉だけからは循環論法に見えるが、さらに、第2段階としては、窃盗症のベースにある脳機能不全、そして衝動制御の障害が犯行に影響していると考えることができる、重症度は異常性と反復性により判断され、被告人の場合、窃盗症の衝動制御障害の程度は非常に重く、重症だったと考えられるなどと補足する。
そして差戻審はこれについて、「M医師の前記見解については・・・不合理なものとはいえない」というやや控えめな表現ではあるものの、正しいものとして受け入れている。すなわちここまでで差戻審は、被告人の窃盗症が重症であり、本件犯行に強く影響し、その機序は脳機能障害としての衝動制御の障害であるという鑑定意見をすべて受け入れたことになる。
91
以上の精神医学的判断を前提に差戻審は責任能力についての論考に進む。その論考に先立ち差戻審は次の「宣言」をしている:
責任能力の有無、程度を判断する際には、精神科医による診断名等に拘泥したり、生物学的要素に関する専門的知見に過度に依拠したりすることなく、犯行の経緯、態様、動機及び被告人の前後の言動等の具体的な事情を総合的に検討し、法的、規範的観点から、事理弁識能力及び行動制御能力の有無及び程度を認定して、責任能力を判断するのが相当である。
92
「宣言」と私は記したが、上の91の記載内容は、現代の責任能力判断における確立した考え方であると言える。したがって異論の出る余地はないが、文中に散りばめられた「拘泥」「過度に依拠」「法的」「規範的」などの言葉は意味深長である。すなわち、「拘泥」「過度に依拠」は程度を表す言葉であって、どの程度であれば「拘泥」「過度」と言えるかは曖昧である。「法的」「規範的」はさらに曖昧な言葉である。したがって上の91は、そうした曖昧な部分については裁判所の裁量で決めることを含意しているという意味で「宣言」なのである。特に「規範的」は本判決の隠れたキーワードであることが後に明らかになる。
93
上の91に続いて差戻審はさらに次のように宣言している:
以上の観点からすれば、被告人は、本件犯行時、重症の窃盗症にり患しており、その著しく強い影響の下に犯行に及んだとするM医師の見解は、あくまで、生物学的要素に関する精神医学上の専門的知見という限度で尊重されるべきものであって、それを超えて、M医師の見解を過度に重視し、具体的な事実関係を踏まえた法的、規範的観点からの検討や判断を経ないまま、M医師の精神科医の立場からの見解をそのまま責任能力の有無及び程度の判断に結び付け、責任能力について最終的な結論を出すことは許されない。
94
これもまた91と同様の意味で一種の「宣言」である。91宣言は、「拘泥」「過度に依拠」「法的」「規範的」などの言葉の解釈の問題をとりあえず棚上げにすれば、現代の責任能力論における確立した考え方を述べたものであるようにも見える。だがこの93宣言には疑問がある。それは
M医師の見解は、あくまで、生物学的要素に関する精神医学上の専門的知見という限度で尊重されるべき
という部分である。
95 (昭58最高裁決定)
ここでいう「生物学的要素」とはもちろん、昭和58年の最高裁決定610)620)に記されている特殊な用語で、「精神の障害」を指している。「生物学的要素」に対比されるのは「心理学的要素」で、これは「弁識能力」「制御能力」すなわち責任能力構成要素を指している。究極的には、「生物学的要素」も「心理学的要素」も裁判所の評価に委ねられるべきものであるというのが昭和58年の最高裁決定である。以下、本稿ではこの決定を「昭58究極決定」と記す。
96
究極的には裁判所が結論を出す。これはいかなる事項についてであっても当然である。昭58究極決定は、この当然のことを再確認したものであると見ることができる。
97 (平20最高裁判決)
「究極」には裁判所が判断し結論を出すのは、責任能力に限らずいかなる事項についても当然なのであるから、実務上重要なのは、究極の判断ではなく、究極に至る前の段階での判断手法の方である。それについても最高裁が、平成20年に判決で示している630)640)。次の通りである(下線は村松による):
生物学的要素である精神障害の有無及び程度並びにこれが心理学的要素に与えた影響の有無及び程度については,その診断が臨床精神医学の本分であることにかんがみれば,専門家たる精神医学者の意見が鑑定等として証拠となっている場合には,鑑定人の公正さや能力に疑いが生じたり,鑑定の前提条件に問題があったりするなど,これを採用し得ない合理的な事情が認められるのでない限り,その意見を十分に尊重して認定すべきものというべきである。
精神鑑定意見について裁判所が尊重すべき範囲を示したこの判決を、以下、本稿では「平20尊重判決」と記す。
98
平20年尊重判決・昭58年究極決定・TL差戻審93宣言の三つを、精神鑑定ステージに対応させたのが図5である。
図5

図5. 精神鑑定ステージと各決定・判決・宣言の対応
平20尊重判決は、生物学的要素が・・・心理学的要素に与えた影響の有無及び程度については・・・その意見を十分に尊重して認定すべき と言っているのであるから、その尊重範囲は図5の通り、最終結論を導く論考部分に及んでいる。それに対し93宣言は、尊重範囲を「精神障害の犯行への影響」までであると断じている。図の両矢印は、平20尊重判決と93宣言のギャップ範囲を示したものである。なお93宣言でいう「生物学的要素に関する精神医学上の専門的知見」という文言は、図の「精神障害の犯行への影響」さえも含まないという解釈もありうるが、昭58究極決定の「生物学的要素」はそれを含む(但し「犯行への影響」は責任能力への影響は含まない)と一応ここでは解釈している。
99
すなわち、93宣言は平20尊重判決と矛盾している。93宣言は文章だけで読むと何気に納得して通過してしまいそうだが、図5のように視覚化すれば矛盾は一目瞭然である。最高裁は、鑑定人の意見の中の「生物学的要素」だけを尊重せよなどとは言っていない。「生物学的要素に関する精神医学上の専門的知見」及びその「心理学的要素に与えた影響の有無及び程度」を尊重せよと言っているのである641-645)。
100
TL差戻審の93宣言と平20尊重判決の対比は最もシンプルに記せば表1の通りである。

表1. 差戻審と平20尊重判決の対比
実際には平20尊重判決を持ち出すまでもなく、精神鑑定意見の中の「生物学的要素(精神障害の診断)が心理学的要素(責任能力=弁識能力・制御能力)に与えた影響の有無及び程度を裁判所が尊重しなければならないのは当然である。裁判所が生物学的要素(精神障害の診断)だけを尊重するのであれば、現代において精神鑑定として行われている作業の大部分は不要である。なお、近年の裁判実務では、この平20尊重判決に記された「影響の有無及び程度」という文言が修正され、「影響の有無、程度、機序」あるいは単に「影響の機序」についての意見が鑑定医に求められる傾向がある。
101
91宣言で差戻審は、「拘泥」「過度に依拠」「法的」「規範的」などの言葉を導入した。このうち「拘泥」「過度に依拠」は、言葉だけを抽出してみれば、反論の余地なく正しいものである(「拘泥」「過度」は、その言葉自体が「悪」を含意しているから、「拘泥」「過度」を否定する表現すなわち「拘泥してはならない」「過度に〇〇してはならない」は常に正しい命題である)。また、「法的」「規範的」は解釈の幅があり曖昧である。
102
そしてこれに続く93宣言は、「それを超えて」「過度に」「法的」「規範的」という言葉を重ねて強調することに加えて、「精神鑑定を尊重する範囲は生物学的要素に関する部分のみ」という独自の主張 --- 最高裁の判決を覆す独自の主張 --- を明言している。
103
「拘泥」「過度」という言葉で武装した時点で、91宣言にはキナ臭さが漂っていたが、その火元が93宣言の記述の中に垣間見られている。火元とはすなわち、差戻審が独裁的な判断を下そうとしているという意図である。
104
それは、判決書の次の段落でさらに明確化するのであるが、ここでいったん、判決書全体の構成を示しておく(図6)。いまいるのは判決書の大体半ば地点である。
図6
図6. TL差戻審判決書の構成.
差戻審判決書は全18頁で、そのうち12頁半が「当裁判所の判断」にあてられている(図の「第3」)。本論本文85-103までの引用と次の105までがその判断の前提部分である。
図の左端の空白boxは判決などが記された緒言部分である。判決書はこの緒言とそれに続く「第1 事案の概要及び従前の審理の経緯等」「第2 原判決の判断の要旨」「第3 当裁判所の判断」「第4 破棄自判」から構成されている。91宣言と93宣言は「第3」の前半40%あたりの位置に2つ連続して記されている。

105
差戻審判決書の93宣言の次の段落では2つの事項に言及されている。一つはDSM-5の「司法場面におけるDSM-5使用に関する注意書き」である。もう一つは窃視症や露出障害などの責任能力である。
106
前者については、同注意書きの中の、「判断はケースごとに個別に行わなければならない」という部分のみを抽出し、差戻審の判断を正当化しているが、「判断はケースごとに個別に行わなければならない」のは全く当然のことであって、何かを引用して正当化しなければならない性質のものではないから、差戻審の判示とは無関係の引用である650-680)。
107
後者については、窃視症、露出障害、窃触症、ギャンブル依存において、
衝動性が非常に高い場合に、実務上、そのことのみから責任能力が限定されているような判断をしていない
ことを指摘し、同判断との整合性という観点から本件の判断をすることが正当であると主張している。
この主張には三つの問題点がある。第一は、そもそも他の障害における判断手法を援用することに正当性があるかという問題である690)。第二は、「衝動性」という言葉で一括して同じ一群として判断することが正当であることが自明の前提であるかのように判示されているが、そのようにできることに根拠がない 690)。第三は、仮にこれらを同じ一群とすることを容認したとしても、それらの障害において「衝動性が著しく高いことのみから責任能力が限定されているというような判断はなされていない」とする差戻審の主張には根拠が示されていない 700)710)。
108
直前に記されたDSM-5の無意味な引用とあわせ、「責任能力は、重症度から直接判断するのではない」ことが正しいのだと差戻審は強調しようとしているのであり、この言説自体はほぼ100%正しいと言えるが、その判断の正当性の根拠としてあげている105の2点は差戻審の判示とは無関係で、正当性の根拠になっていない 720-750)。
109
もっとも、差戻審の判断が示されるのはここから後である。本件の責任能力について「重症度から直接判断するのではなく、個々のケースについて具体的に判断する」という(全く当然の)基本理念をここまでで示したうえで差戻審は、その「具体的な判断」に入る。あらためて判決書の構成をより詳細に示したのが図7である。次項110からこの図の「(2)差戻審の責任能力判断」部分に入る。
図7

図7. TL差戻審判決書「第3 当裁判所の判断」の構成.
「第3 当裁判所の判断」は全266行で、「1 原判決について(8行)」「2 M医師の見解の合理性について(97行)」「3 以上をふまえた原判決の判断に対する検討 (161行)」から構成されている。そしてこの3すなわち原判決の判断についての検討部分は、「(1) (見出しなし=内容は91宣言、93宣言の記述と、それに続く1審の否定)(57行)」と「(2) 被告人の本件犯行当時の責任能力について=差戻審の責任能力判断)(104行)」と「(3)小括(7行)」から構成されている。
110
図7の「(2)差戻審の責任能力判断」部分は、
ア 盗品の内容・数量
イ 犯行態様と弁護人主張の排斥
ウ 小括
から構成されており、このうちイは、その24%が犯行態様、76%が弁護人の主張の排斥に割かれている。
111
したがって差戻審としての責任能力判断はアの全部とイの24%である。これは「(2)差戻審の責任能力判断」の34%を占めている。判決書全体を分母にするとその7%になる。
図8

図8. TL差戻審判決書における責任能力判断「根拠」部分
赤くシャドーをつけた部分が差戻審による責任能力判断の「根拠」となる部分で、それは結局のところ盗品の内容・数量と犯行態様であり、図の通り、判決書全体のごくごく一部を占めるにすぎない。差戻審はこの判決書でTLの責任能力判断について縷々述べるが、実質的な内容はほとんど何もない。
112
そしてその内容は結局のところ、店内での行動すなわち本件犯行の具体的描写のみである。「ア 万引きした商品の具体的な数量」「イ 犯行の態様」という小見出しの通り、そこに記述されているのは「何を盗んだか。どう盗んだか。」である。これはシンプルに「What & How」と言い換えることもできる。
113
TLにおいては、アの内容や数量は決して通常の万引きとしても異常なものではなく 760)、イの態様も、見つからない工夫をするなどしているところが見られ 770)、通常の万引きとして異常なものではない。このように犯行の具体的描写をかなり詳細に行なった後、差戻審は次のように述べる。
本件犯行全体を見ると、終始冷静かつ合理的な行動が取られており、関係証拠上、周囲の状況に構わずに万引きをするなどといった犯行態様等の異常さもうかがわれない。
さらに、被告人は、本件犯行前後を通じ、意識障害等は認められず、現実検討能力に異常はなく、自分が置かれた状況や周囲の状況の把握についても異常はない。
114
これは、被害店内における被告人の行動の描写と評価として正しい記述である。しかし本件は1審以来のどの審級においても、決して被害店内における被告人の行動についての事実誤認があったわけではない。つまり差戻審による113の描写は、何ら新しいことを言っているわけではない。ここで論ずべき問題は「被害店内における被告人の行動」ではなく、窃盗症の衝動制御能力と同行動の関係なのである。差戻審の公判で弁護人は当然にそのことを強く主張した(111図8のD イ後半)。それに対し差戻審は判決書で次のように述べる。
115
この点に関し、当審弁護人は、以上のような犯行の経緯や態様等の個別具体的な事実を検討するに際して、窃盗症にり患した者は、窃盗の目的達成のために周囲をうかがったり、身を隠したりするなどの合理的な行動を取れるから、そのような合理的な行動を取れているからといって、窃盗症における衝動性の強さ等は否定されない旨を述べる。
差戻審が引用した弁護人のこの主張は精神医学的に正しい。
116
差戻審はこの主張にも真摯に対応している。次の通りである。(下線は村松による)
そこで検討すると、確かに、M医師及びP医師は、いずれも、窃盗症患者は、窃盗の遂行や犯行発覚防止のため、合理的行動を取ることができ、そのことは窃盗症の衝動性の強さ等を否定するものではない旨の精神医学的所見を述べており、窃盗の実行や発覚防止等に向けた合理的行動等が取れていたことのみを重視して衝動が強くないとか衝動制御能力の減退はないなどと判断すべきではない。弁護人の前記主張は、この限度では首肯できる。
差戻審は弁護人の主張(上記115)を正しいと認めたのである。これは窃盗症をめぐる我が国の裁判史上、画期的な判断であるといえる780-860)。
だが差戻審の論考は、次の瞬間、「しかしながら」という接続詞を発し、暴力的に歪む。
117
しかしながら、前記の本件犯行の経緯や態様等に関する判断は、被告人がそのような合理的行動を取れていること自体に着目しているわけではなく、窃盗症と診断されていることやその衝動が強いこと自体が直ちに責任能力の有無や程度に影響を与えるものではないことを前提に、行動制御能力に疑いが生じるような異常さがうかがわれないかという観点から検討を加えるものであるから、弁護人の前記主張に反するものではない。
118
上記117が本判決において116と並ぶ画期的な判断が記された部分であり、同時に、最大の欺瞞が記された部分でもある。
119
116で差戻審は
窃盗の実行や発覚防止等に向けた合理的行動等が取れていたことのみを重視して衝動が強くないとか衝動制御能力の減退はないなどと判断すべきではない
ということは明確に認めている。つまり上記115の弁護人の主張=精神医学的に正しい記載を正しいものとして受け入れている。
120
したがって115と116で差戻審は次の判断を明確に示しているのである:
窃盗症の責任能力判断においては、窃盗の実行や発覚防止等に向けた合理的行動等が取れていたことのみを重視して衝動が強くないとか衝動制御能力の減退はないなどと判断してはならない。
121
これは実に画期的な判示である。画期的といっても、窃盗症についての精神医学的な常識が記されているだけではあるが、これまでの我が国の窃盗症についての裁判ではこのことが全く理解されていない判示ばかりが蓄積され続けていた。そのような歴史を、本差戻審は大きく塗り替えたのである。本稿はこの後、本差戻審の判決書の内容について批判めいた文章が続くことになるが、判決書の中に批判されるべき部分があるのは当然であるからそれ自体が判決書の大きな問題であるとは言えない。そうしたことよりも、120の判断を明確に示したという点で、本差戻審は画期的であり、高い評価に値するものである。本稿「結」の冒頭近く84に示した通り、窃盗症の刑事裁判についての新しい地平を切り拓く序章の始まりを予感させる素晴らしい判示である。
122
窃盗症についてこれまでの裁判所が採ってきた責任能力判断手法の誤りを明確に指摘した差戻審は、次に、新たな判断手法を示す。それが、上の117の判示の中のこの部分である(説明の便宜上①②の数字を付してある):
① 窃盗症と診断されていることやその衝動が強いこと自体が直ちに責任能力の有無や程度に影響を与えるものではないことを前提に、
② 行動制御能力に疑いが生じるような異常さがうかがわれないかという観点から検討を加えるものである
123
この文章中、①は116の繰り返しであり、「別の判断手法」の記述としての実質的な意味は有していない。
したがって差戻審が示した判断として重要なのは②のみであるが、この文章は何を意味しているのか。「行動制御能力に疑いが生じるような異常さがうかがわれないかという観点」とは何か。これもまた何ら具体的な意味を有する文章ではない。窃盗症の責任能力判断として、行動制御能力に着目するのであれば、「行動制御能力に疑いが生じるような異常さがうかがわれないかという観点から検討を加える」のは当然なのであるから、122②は何の内容もない空虚な記述である。
124
もっとも、差戻審はこれに続いて、非常に興味深い論理を提示している。その論理は、被害店内で被告人が「何を盗んだか。どう盗んだか」(112: What&How)のみに着目したものになっており、したがって論理以前に前提の時点で歪んでいるから870-900)、結論的には欺瞞であると私は考えるが、その結論はいったん封印し、差戻審の論理そのものに目を向けてみる。
125
弁護人の論理、繰り返すがそれは精神医学的に正しい論理で、差戻審もその論理が正しいことを認めているのであるが、そのうえで差戻審は、「異常」という概念を導入することで、弁護人の指摘をすべて排斥している900-970)。前記113判決書引用部分を読み直してみると、たった数行の中に、「異常」という語が3回も登場している。再掲する(下線は村松による)。
本件犯行全体を見ると、終始冷静かつ合理的な行動が取られており、関係証拠上、周囲の状況に構わずに万引きをするなどといった犯行態様等の異常さもうかがわれない。
さらに、被告人は、本件犯行前後を通じ、意識障害等は認められず、現実検討能力に異常はなく、自分が置かれた状況や周囲の状況の把握についても異常はない。
「確かに衝動性は高いが、異常性はそれほど高くない」というのが、差戻審の論理の根底に一貫して流れている主張であることがここから読み取れる。これは、現代の責任能力概念すなわち弁識能力と制御能力という責任能力構成要素の根底に存在する、「精神の異常とは何か」についての、人々のナイーヴな感覚に立ち戻ったものであると考えることができる。
126
「その精神は異常か異常でないか」という観点に基づく判断が、責任能力論の根底にはあり、それは「異常精神論」と呼ぶことができる(切断是非論 120-124)。
127
本件、弁護人が示した事実をすべて「それは事実だが、さほど異常ではない」という論理で突き返した差戻審は、対案としての自らの論理を次の通り示す:
以上に検討したとおり、前記の本件犯行時の具体的な犯行の経緯や態様等に照らせば、被告人は、本件犯行当時、窃盗症にり患し、そのために窃盗に対する衝動が強い状況にあったとはいえても、行動制御能力は著しく減退していなかったものであり、完全責任能力を有していたと認められる。
128
前記124の通り、この結論を導いた差戻審の論理は、良く言えば興味深く、悪く言えば欺瞞である964)。そのことはあらためて判決書の「当裁判所の判断」を腑分けしてみれば明らかになる。図9の通り、この結論の根拠となっているのは被害店中での行動の記述(オレンジの円)のみなのだ980)990)。
図9

図9 .判決書の構成.
長方形で囲んだ「3(1)」などの記述は判決書のセクションの記述に対応している。円の大きさは各部分の記述量に対応している(中央の結論部分を除く)。図9の説明の詳細は本文129参照。
129 (図9の説明)
判決書の「2 M医師の意見の合理性について」は、1審判示のうち差戻審が正しいと認定した部分であり(それは事実上、1審判示のうち、責任能力についての最終結論部分を除くすべてである)もので、実質上、「1審肯定論」である。「1審肯定論」の記述は、差戻審の判断の約36%を占めている。
それに続く「3 以上を踏まえた原判決の判断に対する検討」は、実質上、「1審否定論」である。「1審否定論」の記述の約半分は91宣言と93宣言に割かれており、つまりは差戻審の単なる所信表明である。それに続くDSM-5注意書き及び他の障害についての記述は、本件とは無関係の内容である。
そして「1審否定論」の結びとして1審の判断を否定した理由として、「前記のような責任能力手法」を1審が採っていないと述べているが、その「前記」とは93宣言に記された「具体的な事実関係を踏まえた法的、規範的観点からの検討や判断」を指しているようであるが、そうした「検討や判断」が必要なことはあらためて差戻審から宣言されるまでもなく誰もが知っていることであるから、判決書の大部を割いて記す必要性は認めにくい。「1審否定論」の記述は、差戻審の判断の約21%を占めているのである。
これらの内容は判決書として必要な記載ではあるが、より重要なのは、その「検討や判断」の具体的内容である。1審の手法を論難するからには当然に代替としての手法を示さなければならない。現に1審否定論に続いて差戻審自身による本件犯行の検討に入っている。しかしながらその内容は本件犯行態様の描写に終始しており、「窃盗症の責任能力判断においては、窃盗の実行や発覚防止等に向けた合理的行動等が取れていたことのみを重視して衝動が強くないとか衝動制御能力の減退はないなどと判断してはならない。」とした差戻審自身の判断(115, 116, 120)と矛盾している。
130
つまり本判決書は次の構造を取っている。
図10


図10. 判決書の論理構造.
A. TLの責任能力判断部分についての判示から、差戻審の論理を抽出した論理構造。この図を見れば、この判示が非論理的な三段論法になっていることが自明である。(但し「衝動制御」と「行動制御」の関係をどう解釈するかという問題がここに発生する。この点については138以下を参照)
B. Aの各段階の具体的な判示。
131
図10Aを見ればTLの責任能力判断についての差戻審の判示が自己矛盾に陥った非論理的なものであることは一目瞭然であるが、判決書の構造はその非論理性が見えにくいものになっている。図11の通りである。
図11