幻聴と責任能力をめぐる一考察
村松太郎1)、下村雄太郎2)、渡邉亮3)、新井里沙4)、狩野祐人5)、前田貴記1)
1) 慶應義塾大学医学部精神神経科
2) 横浜市民病院神経精神科
3) 駒木野病院精神科
4) 大泉病院精神科
5) 慶應義塾大学文学部大学院社会学研究科
(2021.5.20.)
起
1
殺せという声が聞こえ、その声に従って殺した。これがいわゆる命令幻聴による犯罪の一つの典型である。この幻聴に抗うことができずに犯行を行ったのであれば、心神喪失で無罪となるのが通例である。
2
もちろん命令する声が聞こえたからやりましたというだけでは責任を免除する理由にはならない。人には命令に抗う能力がある。人は自分の意思で命令に従うか従わないかを決定するものである。殺せというような物騒な命令を受けたら、それには従わないと意思決定するのが当然である。すると「命令する声に従って殺した」ことを理由に免責されるためには、その声には抗えなかったことが証明されなければならない。この証明は本来不可能である。抗えなかったか否かは専ら主観の領域にあり、主観の領域にある以上客観的に証明することは不可能である。
3
しかしながら刑事裁判は、その主観の領域を証明しなければ成り立たない。そこで我が国の裁判所は、「その被告人は犯行時、命令幻聴に抗えたか否か」という問いへの解法を、精密な論考によって創出してきた。
承
4 (逐語法)
その解法の一つが、被告人が聞いたとする幻聴の内容を逐語的に分析する「逐語法」である。幻聴の具体的な内容に基づき、抗えない命令であったか否かを判定するという手法である。
5
裁判所が逐語法を採用した典型的な事例として、ある殺人事件に下された大阪地裁の判決がある10)。被告人(統合失調症に罹患)が幻聴の命令を受け、自動車で複数の通行人をはねて殺害した事件で、裁判所は被告人が聞いたとする幻聴の内容を逐語的に分析して結論を導いている。以下、明朝体の部分は同判決文中に示された裁判所の認定事実ないし判断からの引用である。
事件当日,朝刊を配り終わって帰る途中,幻聴から,母と妹を殺せと命令された。私は,家族を殺すことはできなかったので,そのときは我慢して耐えたが,罰はなかった。幻聴の命令に背くのは怖かったが,どうしても家族を殺すことはできなかったので,無視しようと思った。次の幻聴で,「5人ぐらい人を殺せ。」「もし,それができなかったら,お前を殺すぞ。」という命令が入った。私は,そのとき,恐怖で,全身が震えて,どうしようもなくて,もう人を殺すしかないと諦めて,今回の事件を起こすことにした。
ここで、「母と妹を殺せ」という幻聴には従わず、「5人ぐらい人を殺せ」という命令にはなぜ従ったのかを裁判所は次のように論じた。
被告人は,母と妹を殺せという「悪魔の命令」には,そうしなかったらどうするという条件がついていなかったので,無視できたが,被告人の自家用車で5人殺せという命令には,そうしなかったら自分が悪魔に殺されるという条件(罰)がついていたので,怖くて無視できなかった旨供述している。
幻聴すなわち悪魔は、命令に従わなかったらどうなるかということを、母と妹の殺害については示さなかったが、5人ぐらいの殺害については示した。だから後者には従うしかなかった。これが裁判所の認定である。被告人は心神喪失で無罪となった。
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この事例で裁判所は、統合失調症の幻聴を「命令する声」であると位置づけたうえで、それがあたかも現実の「声」であるとみなして、いわば刑事法でいうところの「緊急避難」(法益に対する現在の危難を避けるために、第三者の法益を侵害する行為)にあたるか否かについての論考を展開している。幻聴という精神病症状を、法の論理に適合させる形で分析した見事な論考であるように見えるかもしれない。だが精神医学的にはこれは明確な誤りである。理由は本稿の『転』に後述するが、その前にもう一つ、裁判所の別の判断手法を示す。
7 (存否法)
それは、幻聴の存否を精密に検討する「存否法」である20)。
8
事例は、大学時代の同級生をナイフで多数回刺し死なせたという殺人事件である30)。判決文からの引用部分を明朝体で示す。
犯行当時の被告人の病状の程度に関して,検察官は,被告人の犯行当時の病状は軽症である旨主張するのに対し,弁護人は,被告人は,犯行直前に幻聴を聞いており,犯行当時,妄想と幻聴を伴った精神運動興奮状態にあったもので,統合失調症の急性増悪期であった旨主張する。
被告人が罹患していた統合失調症の症状と犯行の関係を争点とすること自体は正当である。しかし裁判所は、誤った方向に大きく舵を切ってしまう。上記に続く一文はこうである。
そこで,まず,幻聴について検討する。
これが存否法である。すなわち、幻聴の存否についてまず検討する。そして幻聴の存在が確認できなければ、幻聴の命令に従ったことは否定するという論法である。直接間接に存否法を採用している判例は多い40)。その一つの理由は、これが被告人の供述の信用性判断という、裁判所が得意とする手法に一致するからであろう。被告人というものは様々な供述をするから、刑事裁判では必ずといっていいほど、供述の信用性判断が大きなテーマとなり、裁判所は日々それを行っている。判断のポイントとなるのは供述内容の一貫性や具体性である。逮捕当日、その後の取り調べ、そして法廷での被告人尋問。これらを通して供述内容が一貫し、かつ具体性に富んでいれば、信用性ありと判断される率が大きく高まる。逆に供述が変遷したり曖昧であったりすれば、信用性は減ずる。常識的な感覚からも、これは当然であると納得できる。そして、被告人が犯行前に幻聴を聞いたと言っているのであれば、本当に聞いたかどうかという事実確認から始めるのは正当な方法のように思える。「まず、幻聴について検討する」という裁判所の手順は正当のように思える。しかし存否法は誤った手法である。なぜか。
転
9
統合失調症の幻聴という症状を根本的に誤解しているからである。
統合失調症の当事者は幻聴として「聞いた」とするその具体的内容を説明できないことが多い。これは精神科臨床で当事者の話をよく聞けば明らかで、碩学の論文にも一貫して記載されてきている。たとえばクレペリンは統合失調症の幻聴の具体例として、「戦争が敗けたようなことをいっていた」、「私が何かしでかしたようなことの声だった」、「王様と皇帝の話だった」、「生命と魂と、神の愛のことだった」、「結婚と死のことだった」、「牧師が何か耳にささやいたが、何だか分からなかった」などを挙げ、患者は声について大ざっぱなことしか言うことができないと述べている50)。
10
安永浩は次のように記している60)。クレペリンが記した具体例の要約に位置づけられる記載と言えよう。
“感覚性” そのものでいうと、これらは正常人の聴覚の具体性とは一種異なるものである。患者によっては、「聞こえるのではないがわかる」という。実際、患者は”聞こえる”言葉そのものを具体的に再生することがしばしば困難なことがあるが、その内容意味はとらえている。(中略)聴覚という “知覚”よりも、思念、言語イメージの性格に近づいている
クレペリンが記した実例はいずれも、幻聴として感知された内容の意味についての報告であって、文言についての報告ではない。患者が文言を報告できないのは、決して文言を忘れてしまったわけでもないし、ましてや幻聴の存否自体が疑わしいということでもない。上の安永の記載の通り、統合失調症の幻聴は、たとえ患者が「聞こえた」と表現したとしても、正常人の聴覚の具体性とは異なり、むしろ思念や言語イメージに近い。ただしはっきり聞こえたと報告される場合もあるので、これらを一言でまとめるとすれば、「メッセージの感知」とでも呼ぶべきであろう70)。
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村上仁は次のように記している80)。
分裂病者の幻聴は詳細に観察すると明確な感覚的性質を有しないことが多く、しばしば「耳へ聞こえるのではなく頭に響くのです」、「電波で考えが伝わるのです」などといい、実在の声とは区別されるのが普通であるが、時として実在の人声と全く同様の感覚性を有すると主張する場合もある。
これもまた安永の記載と基本的に一致している。村上が実例として挙げる「頭に響く」や「電波」は、聴覚としての具体性はさらに希薄で、精神医学の厳密な用語法に照らせば幻聴にはあたらないが、村上はそれらも幻聴に含めている。「メッセージの感知」と呼ぶのにふさわしい体験である。
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西丸四方は次のように記している90)。
幻聴患者には、時おりふと声がきこえてくるものの、何ときこえるかその通りに申告することはできない。その意味は分かっていても、聞える言葉をその通りに具体的にいいあらわせない。意識の場の辺縁における意味がとつぜんふとわきだつたのでそれに気づくといつた方が、よい位である。 (中略) 辺縁意識の前景化のときには、聞えるというものの、普通の聴覚体験とは大分ちがうものである。患者は、ふと浮かびあがる思考なのか、声なのかわからくなつてしまう。ひとりでに浮かびあがる観念、思考吹入となることもあるし、半分は聞え、半分は考えであるとか、声ではないが言葉となつて感じるとか、頭の中に声になつてひびくなど、さまざまなことをいうが、辺縁意識の前景化の場合には、普通の知覚思考体験とちがうのであろう。
統合失調症患者は幻聴の内容を逐語的に報告できないが、意味を報告することはできるという指摘はクレペリン、安永、村上と同様である。西丸はここでさらに、その意味の発生源、すなわち幻聴の内容がどこからきたかという点にまで言及し、それは「意識の場の辺縁」であると示唆している。
13 (逐語法の誤り)
逐語法が誤った手法であることはもはや明らかであろう。統合失調症の症状の中心に位置づけられている幻聴とは、「幻聴」という名に反して、実は決して「幻」が「聴」こえるものばかりではない。碩学たちの論文に明記されているように、また、臨床的にも明らかなように、統合失調症の幻聴において聴覚性は本質でない100)。したがって当事者が幻聴を体験したと述べるとき、その真偽を確認しようとして、当事者が聞いたと訴える「声」の具体的な文言を追求するのは失当であるということである。「声」について、当事者が逐語的に説明できないからといって、幻聴の存否が疑わしいということには決してならないし、逆に当事者が逐語的に説明できた部分を過度に重視することもまた失当である。殺せという声が聞こえ、その声に従って殺した。では彼/彼女はその声に抗うことができたのか、それともできなかったのか。この問いに対して、聞こえたとされる声の一言一句を分析するという逐語法は、統合失調症の幻聴という症状の本質に目を向ければ、明白な誤りである。
14 (存否法の誤り)
そしてこのことから存否法も明白な誤りであることが自然に導かれる。統合失調症の幻聴は明瞭な聴覚性を持つ「声」ではないのであるから、「本当に聞こえたのか」という問いは意味をなさない。また、殺人などの激しい犯行はしばしば精神運動興奮状態においてなされるものであり、興奮時のことについては健常人においても正確に回想することはできないことから考えても、「声が聞こえたか、それとも聞こえなかったのか」という問いを、犯行の理解の中核にかかわる問いとして設定することはナンセンスとさえ言えるものである。
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なぜそんなナンセンスが法廷で堂々と行われているのか。主たる責任は、「命令幻聴に抗えなかったか否か」という文脈で犯行を説明しようとする精神鑑定医にある。
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鑑定医は精神障害の犯行への影響のメカニズムを説明する。その説明を受けて裁判所は責任能力について判断する。これが現代において適切と考えられている、鑑定医と裁判所の役割分担である。存否法も逐語法も、「鑑定医の説明を受けて、そこから先は法の考え方にあてはめる」という手法であるから、形式的には正当で、ある意味理想的な方法である。
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したがって鑑定医が「命令幻聴に従ってなされた犯行である」と説明すれば、裁判所が存否法や逐語法によって犯行を理解しようとするのは自然である。なぜなら、刑法においては、責任とは非難ないし非難可能性を指し、その非難は行為者の意思に向けられるものだからである110)。
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犯罪は行為そのもの(犯罪行為 actus reus)と、その行為への意思(犯意 mens rea)の両方によって成り立ち、どちらか一方だけでは犯罪にならない。常識的にも、犯意がなければ非難できないと大部分の人は考えるし、それは刑法38条1項「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」とも一致する。人に対する非難とは、常識的にも法的にも、意思形成に対する非難なのである。
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したがって、「命令幻聴に抗えなかったか否か」という問いが提出されれば、裁判所は下のように、「声」と「行為」を結ぶ中間項としての「意思」に着目する。この「意思」を非難できるか・できないかが、責任判断のポイントになるのである。
殺せという声 → 意思 → 殺す
すると問いは「彼/彼女は自分の意思によって殺さないという選択をすることができたか」という問いに変換される。先に示した大阪地裁の事件では、「5人ぐらい人を殺せ。」「もし,それができなかったら,お前を殺すぞ。」と声で命令された以上、自分が殺されないためには人を殺すしかない→自分の意思で命令に抗うことは期待できなかった→殺すという意思決定は非難できなかった、という論理で無罪となったのである。
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だがこの手法が正当化されるためには、第一に、確実に声が聞こえたことが確認でき、第二に、その声の具体的内容の検討が可能であることが必要条件になる。前記の通り、統合失調症の幻聴体験とはメッセージの感知であって、幻聴といっても聴覚としての具体性はしばしば希薄なのであるから50-90)、第一の条件も第二の条件も満たさない。したがって第一の点に着目した存否法も、第二の点に着目した逐語法も、統合失調症の幻聴という症状からはかけ離れた手法であり、滑稽とさえいえる誤りである。では幻聴の命令に抗えなかったか否かについては別の解法が必要ということになるが、それ以前に、もっと根本的な問題がある。
結
21
それは、幻聴の発生源は本人の内部にあるという事実である。
22
統合失調症患者は、他者からのメッセージを幻聴として体験する。あるいは電波などとして体験する。如何なる形式で体験されようと、その発生源は本人の内部にある。統合失調症の本人が他者の意思であるかのように体験しているメッセージの内容は、本人の内部から発生した意思なのである。逐語法において裁判所は、声に続く中間項として意思を導入したが、声の前に、いわば初項としての意思が存在するというのがいわゆる命令幻聴の真実である120)。すると前掲19の図式は初項を追加して下のように書き換えられなければならない。
意思 → 殺せという声 → 意思 → 殺す
(初項) (中間項)
23
殺せという声が本人の意思なのであれば、殺したのは本人の意思を実現したにすぎない。では通常の殺人と同じではないか。幻聴の命令についてあれこれ論ずる前に、これが根本的な問いとして提出されなければならない。
24
それでも責任減免される事情を見出すとすれば、意思発生そのものに異常があった場合である。すなわち初項としての意思の異常である。
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「〇〇という声が聞こえた」という精神症状に関して、伝統的に精神医学が注目してきたのは「声が聞こえた」という部分である。「〇〇」という部分にはほとんど注目してこなかった。「声が聞こえた」すなわち、統合失調症の当事者は幻聴をはじめとする様々な形で他者からのメッセージを感知する。この体験が自我障害である。
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「殺せという声が聞こえた」と統合失調症の当事者が語るとき、「ではその声に彼/彼女は抗うことができたか」という裁判所の定番の問いは、前掲22の図式の中間項としての意思に着目したものである。他方、自我障害とは当事者の体験であり、前傾22の図式にあてはめれば、初項と中間項という二つの意思=自我が存在することに着目したものである。すなわち、法と精神医学はそれぞれ、別の点に着目して論考を発展させてきた。
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自我障害について、たとえば村上は次のように記している130)。
要するに自我障害に属する症状の特徴は、自己所属感を伴わない心的機能が、空想的な他の社会的人格に属するごとくに感じられることに存する。すなわち自我の一部が他我と混同される現象であって、「自我の境界」が不明瞭になりつつあることを示すものである。
本質的に同じことを島崎敏樹、シュナイダーらも述べている140) 150)。
28
20世紀半ば、すなわち統合失調症が疾患として認められたごく初期から注目され、多くの精神病理学者が統合失調症の中核的症状として精力的に研究してきた自我障害は、操作的診断基準では後景に退いた扱いになってきていたが、現代のニューロサイエンスは自我障害の脳内メカニズムに急接近しており、統合失調症を解明するキーワードとして再び脚光を浴びつつある160)。
29
一方、初項そのもの、すなわちメッセージの内容についての研究はきわめて少ない。初項と中間項が存在するという形式についての注目度に比べると、無視されていると言ってもよく、文献中にもその記載は散見されるにすぎない。
30
たとえば、村上仁は次のように記している170)。
一般の作為現象や幻聴においても、客観化されるのは、意識下に存する自他の区別の明瞭でない心理、すなわち無意識的欲望または良心などである。
31
安永浩は次のように記している180)。
幻聴の”内容”は本来の思考と平行的に存してその傍流をなす思考であるようにみえる面と、本来の思考とむしろ一体であるようにみえる面とがあるが、いずれにせよ本来能動的な或る思考、内語運動の発動に由来しているようにみえる。ただその起点たるべき部分の定位が自我中心とずれて知覚される、とでも表現されるべき事態がそこにあるのではなかろうか。
安永は思考が自我中心とずれて知覚されるという点に注目し、有名なファントム理論を発展させたが、これもまた体験の形式に着目したもので、内容については上の「傍流をなす思考」という地点にとどまっている。
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「無意識的欲望または良心 (村上)」「傍流をなす思考 (安永)」そして前述12の「辺縁意識 (西丸)」などの表現は、いずれも前記の初項としての意思の内容についてのものである。それらは本来の意思であるのかそうでないのか。
この問いを追究していくと、「本来の意思」とはそもそも何かという隘路に迷い込むことになるが、少なくとも臨床的に確実に言えるのは、「統合失調症では、到底本来の意思とは思えない意思が発生することがある」ということである。
33
このとき、本人の内部に発生した以上はすべて本来の意思であるという極端な考え方もありうるが、それは精神病という概念そのものの否定にほかならない。精神病についての人々の素朴なイメージは、「本来のその人ではなくなる」というものであって、「本来のその人ではなく、病気がさせた行為」であれば免責されると考えるのが一般的な感覚である。
34
そしてその感覚は法における責任能力の概念とも一致している。責任能力は大審院の判例に従い形式上は弁識能力と制御能力の存否により判定されるものであるが190)、その本質は法に従って意思決定をする能力であって200)、心神喪失の実質は、行為者の思考と行動が、本来のその人の人格とは無縁であり、かつ異常なもので、一般通常人において了解不可能な場合のことと解されている210)。
35
ここに、統合失調症についての精神医学的知見と、責任能力という法的概念の接点を見出すことができる。統合失調症においては本来の意思とは異なる意思が発生しうる。それはまさに、人格とは無縁かつ異常で、了解不可能な事態であるから、心神喪失認定に密接に関連している。
36
統合失調症の当事者はその異常な意思を、幻聴をはじめとする様々な形式で、他者の意思として体験する。そしてそうした意思を行動に移すことがありうる。この「ありうる」ことが、当該犯行において実際に生起したか否かが、責任能力についての中心的な問いになる。
37
この問いを視野に入れると、統合失調症当事者が感知したメッセージ(それは声という形を取ることも取らないこともあるが、便宜上、声とする)の犯行への影響についての説明は次の二つのパターンに整理することができる。
38 (第一のパターン)
第一は、初項としての意思が正常な場合である。
意思(正常) → 殺せという声 → 意思 → 殺す
この場合は、幻聴という体験があろうとなかろうと、責任を減免する理由は失われる。
ただし、慢性化して人格荒廃が進んだ統合失調症では、人格水準の低下によって、健常な人には期待される抑制力が失われていたり220)、あるいは著しい思考障害による意思そのものの障害のため犯罪の故意の形成が認められないといったケースも存在するが230)、本稿のテーマからは外れるのでこれ以上は立ち入らない。
39 (第二のパターン)
第二は、初項としての意思が異常な場合である。
意思(異常) → 殺せという声 → 意思 → 殺す
このとき当事者は、自我障害、すなわち、他者の意思としてその異常な意思を体験する。その一型が幻聴である。「幻聴に抗うことができたか」という問いは、初項すなわち本来でない異常な意思として発生した「殺せ」というメッセージを、中間項すなわち本来の意思で抑えることができたかという問いに変換される。逆に言えば初項が中間項を凌駕する強烈さを有していたかということである。それが「幻聴に抗うことができたか」という問いの本質である。この問いには回答可能であろうか。
40
犯行時の統合失調症の症状の重症度におおむね比例するというのが精神医学的には唯一の回答であるとわれわれは考える。
41
ここでいう重症度とは、あくまでも犯行時というピンポイントにおける重症度である。臨床医学においては重症度とは、社会機能や予後予測など様々な観点から総合的に決定されるものであるが、犯行時の重症度はそれと重なる点はあるものの基本的には異なる概念である。「病勢」と言い換えた方が誤解が少ないかもしれない。統合失調症という疾患の経過中のある時点の状態についての重症度である病勢の評価については、臨床でいう統合失調症の重症度のスケール、たとえばPANSSなどは全く無力である。
42
かくして「幻聴の命令に抗うことができたか」という問いへの精神医学的回答は、「犯行時の重症度=病勢から判断する」ということに帰結する。この結論に到達するまでの論の展開を再記述すれば次の通りである:
幻聴の聴覚性は具体的でない。よって逐語法は不可。幻聴はメッセージの感知であり、幻聴自体の存否は本質的でない。よって存否法は不可。幻聴の発生源は本人の内部にある。つまり幻聴という形であれ何であれ、メッセージとして本人が感知したものは本人の意思である。よってそれが本来の意思でないときにはじめて本人への非難が減軽される理由が発生する。本来の意思でない意思を、本来の意思で抑制できたか否かは、犯行時の重症度=病勢におおむね比例する。
精神鑑定においては、精神障害の犯行への影響のメカニズムの説明を求められるのが常である。幻聴の命令に従ったとされる犯行、及び、その周辺にある犯行に関する、メカニズムについての説明は上記の通りとなる。
この説明に対しては、裁判所等から、互いに表裏の関係にある二つの批判が考えられる。
43
一つは複雑すぎるという批判である。
44
上の説明はいかにも複雑でわかりにくい。他方、幻聴を命令する声であると捉え、その命令する声に彼/彼女は抗えなかったのかという問いを設定する方がはるかにシンプルでわかりやすい。だがこの問いの設定は精神医学的に明確な誤りであるから採用することはできない。正しい説明を複雑でわかりにくいから不可とするというのは滑稽とも言える批判であるが、特に裁判員裁判においてはこの滑稽な批判が堂々と裁判官から述べられることがある。真実を犠牲にわかりやすさを前面に出すことが許されるはずがなく、裁判員裁判という制度に合わせて真実追究のレベルを下げるのは本末転倒であり司法の怠慢である240)。裁判官から複雑すぎて裁判員にはわかりにくいなどという批判が出された場合は、何倍もの強い批判によって応ずるべきであろう。
以上、複雑すぎるという批判は失当であるし、そもそも批判として成立しない批判である。
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もう一つは単純すぎるという批判である。
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すなわち、「幻聴の命令に抗うことができたか」という問いへの回答が「犯行時の重症度=病勢から判断する」ということは、「重症であれば心神喪失」という単純な説明にほかならず、それは不可知論と同じであって、説明として成立していないという批判である。
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不可知論とは、精神医学的診断(疾病診断)を下した時点で判断を停止し、あとは、あらかじめ精神医学者と司法関係者との間で、診断と責任能力との間に一対一対応で決めた「慣例」に基づいて責任能力の結論を導くことを指す。統合失調症におけるこの「慣例」は、一律心神喪失であるとされ、代表的なものはシュナイダー、グルーレ、そして法学者のメツガーの考え方であるが250)、我が国においてもこの考え方が優勢であった時代があった。しかしながら現代においては、責任能力の評価と検討は可知論的な視点から行うこと、すなわち、個々の事例における精神の障害の質や程度を判断し、その精神の障害と行為との関係についての考察に基づいて責任能力を判断することが推奨されている260)。上の「重症であれば心神喪失」という結論は、「その精神の障害と行為との関係についての考察」を放棄している、というのが、「単純すぎるという批判」である。
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可知論を推奨することは妥当であるが、上の「重症であれば心神喪失」という結論を不可知論に分類することは不当である。
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なぜなら、第一に、可知論とは、すべてを可知であると想定する論ではない。可知論には当然に限界がある260)。可知論的な視点で行うとは、知ろうとする努力を続けることであっても、可知の領域を無制限に拡大することでは決してない。いかに精密に論考を進めても、そこから先には進めない壁に必ず人は遭遇する。人はそこで思考を止めなければならない。その壁をあたかも突き破ったかのようにして、形式的には合理的な解釈をするのは知ったかぶり可知論である。
第二に、上の「重症であれば心神喪失」という結論は、あくまで結論としてはそうなるということであって、すなわち知ろうとする努力を最大限に続けた結果到達した壁を描写したものであるから、不可知論にはあたらない。可知論と不可知論という二分法においてはしばしば、可知論というからには必ずすべてが説明されなければならないというかのような誤解が生じているという現状に鑑みると、説明の限界の存在を謙虚に認めた可知論は限界的可知論と呼ぶ方が望ましいかもしれない。
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「幻聴の命令による犯行」は、限界的可知論によれば、次のように説明できる。
(1) 本来でない意思が発生する。
(2) その意思をメッセージとして体験する。
(3) 本来の意思が、(1)の本来でない意思に圧倒され、行動化する。
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このうち、伝統的に精神医学が最も注目してきたのは25-28に前述の通り(2)で、ここに精神医学の専門性が最も強く発揮される。裁判所が採用してきた逐語法や存否法が誤りであることは、統合失調症の幻聴についての精神医学(前述の9-12など)に照らせば誤りであるから、明快に否定できる。
しかし(2)についての精神医学的知見が刑事裁判に貢献できるのは、裁判の誤りを指摘するという破壊的な面にほぼ限定されており、建設的なものはほとんどない。(2)すなわち自我障害は、本人の主観的体験についての症状であり、それは精神医学的には重要であっても、犯罪においては重要でない。相対的にはるかに重要なのは(1)と(3)である。
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(3)については前述42の通り、犯行時における重症度=病勢という観点からしか語れない。犯行時の被告人が、激しい精神運動興奮状態や、著しい幻覚妄想状態にあれば、本来の意思の発動はほとんど不可能であるから、そうなれば責任能力的には心神喪失に傾く。したがって病勢の評価を根拠とともに示すことは、鑑定医の重要な責務である270)。
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最後に残った(1)が最も重要である。だがこれについては前述32の通り「統合失調症では、到底本来の意思とは思えない意思が発生することがある」とまでしか言えない。それは本来の意思だったのか。そもそも本来の意思とは何か。どちらも精神医学が回答できる性質のものではない。精神医学に限らず、自然科学が回答できる性質のものではない。したがって精神医学がここから先を語ってはならない。
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その先は法で判断すべき事項である。
法が下すべき判断の中には前掲50の(2)と(3)ももちろん含まれるが、(2)と(3)は精神医学の専門的な判断領域であり、裁判所が覆すことは本来的に不可能である280)。たとえば(2)に関して、幻聴があったかとか内容がどうであったかなどと裁判所が判断しようとするのは不条理であるのは前述の通りである。(3)に関して、精神運動興奮状態や幻覚妄想状態の程度についても精神医学の専門的知識なしには判断できない。すると残るのは最も重要な(1)である。
(1)とはすなわち、それが本来の意思かどうかという問いである。その判断は、事実認定によって下す以外に方法はない。被告人と被害者の関係や、犯行前の状況についての客観的事実等から、「殺す」が被告人の本来の意思であったと認定できるかを判定する。これは証拠の評価にほかならず、法的判断の色彩が強い作業である。
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もっとも、その場合でも、精神医学的判断という支援があってはじめて、正確な法的判断が可能になる290)。
本来の意思であったか否かという問いは、動機についての判断と密接にかかわっており、端的には、動機があれば本来の意思、動機が見出せなければ本来の意思ではない、とすることができる。だが動機というものは、探せばいくらでも見つかるものである。それが動機であると解釈しようとすればいくらでも解釈できるという言い方もできる。AがBを殺害したとき、たとえばAとBが既知の間柄であれば、二人の過去においてトラブルが皆無ということはあり得ない。そのトラブルがきわめて些細なものであったとしても、事実としてAがBを殺害した以上、客観的にはともかく、Aにとっては深い怨恨の原因となっていたという解釈は常に可能である。その背景には、人の行動には必ず了解可能な動機があるはずだという常識的判断がある。このような事態は「見かけの了解可能」と呼ばれている。了解とは非対称の概念であり、人の心理についての判断は常に了解可能という判断に傾くものである。
実際の裁判では、検察官は了解可能であると主張し、弁護人は想定される動機と殺人という行為の間には飛躍があり了解不能だと主張する。法廷でしばしば発生しているのは、内因性精神病の深い病理が軽視され、見かけの了解可能性が真の了解可能性と混同されるという事態である300)。この事態を、完全に回避することはできないまでも、最大限に抑制するためには、上の通り、統合失調症の症状の本質についての鑑定医からの説明が必要である。この意味で、(1)が本来の意思か否かという問いは、法的判断の色彩が強いとはいうものの、法と医の協同作業によって初めて正解に最も接近できるものであると言えよう。
本論文の要旨は第16回司法精神医学会(2020年鹿児島; Web開催)で発表した。
注
10) 殺人,殺人未遂被告事件. 大阪地方裁判所平成17年(わ)第1795号,平成17年(わ)第2084号. 平成19年2月28日第11刑事部判決.
20)逐語法は幻聴が存在したことを認めた上でその内容を検討する手法であるのに対し、存否法は幻聴の存否そのものを検討する手法であるから、この二つを並列するのは本来は不合理だが、ここでは便宜的に並列する形で論じたものである。
30)殺人,傷害,銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件. 函館地方裁判所平成20年(わ)第33号. 平成21年10月8日刑事部判決.
40)殺人未遂被告事件. 大阪地方裁判所平成18年(わ)第6978号 平成20年5月26日判決; 殺人未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反被告事件. 広島地方裁判所平成30年(わ)第188号 令和元年7月30日刑事第1部判決; 住居侵入、強盗殺人、死体遺棄被告事件. さいたま地方裁判所平成28年(わ)第631号 平成30年3月9日第4刑事部判決; 殺人被告事件. 奈良地方裁判所平成26年(わ)第76号 平成26年10月31日刑事部判決; 現住建造物等放火,殺人,殺人未遂被告事件. 大阪地方裁判所平成21年(わ)第6154号 平成23年10月31日第2刑事部判決 など
50) Kraepelin E: Psychiatrie. Ein Lehrbuch für Studierende und Arzte. Achten Auflage 1913, 1915 (邦訳: 西丸四方・西丸甫夫訳『精神分裂病』 みすず書房 東京 1986。引用は邦訳書のp.10からのものである)
60) 安永浩 『分裂病の症状論』 金剛出版 東京 1987 p.23
70) 村松太郎 『統合失調症当事者の症状論』中外医学社 東京 2021 p.10
80) 村上仁 『精神分裂病の心理 精神病理学論集 1』 みすず書房 東京 1971 p.42
90) 西丸四方 ダーザインとゲシュタルト 精神医学1: 9-13, 1959
100) DSM-5 (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders 5th Edition. American Psychiatric Association. Arlington VA 2013)には統合失調症の重要な症状(A基準)としての幻覚について、
「幻覚は鮮明で、正常な知覚と同等の強さで体験され、意思によって制御できない」
と記載されている。この記載は、健常者にも時として見られる幻覚様の体験を除外するという観点からは正当であるが、統合失調症の幻覚の性質という観点からは明白な誤りである。(「幻覚」はもちろん幻聴を含む。「(統合失調症の)幻聴において聴覚性は本質でない」は、「(統合失調症)幻覚において知覚性は本質でない」と一般化できる。前掲書70)の「幻聴系」「幻視系」という表現はこのことを示す語である)
110) 井田良 『入門刑法学総論 第2版』有斐閣 東京 2018 p.193.
120) 初項としての「意思」は、幻聴の発生源を「意思」と表現したもので、当事者の意識としては、「自分の意思」としては体験されていない。当事者の意識に上るのはこの「意思」がメッセージ(ここでは「殺せという声」)に変換された段階である。このメッセージを他者の意思であると感知した当事者は、中間項としての「意思」によって、メッセージに従うか否かを決定する。すなわち、初項としての意思は「本来でない意思」、中間項としての意思は「本来の意思」と解される。「本来の意思」については刑事罰を課す非難の対象となるが、「本来でない意思」は非難の対象にはなり得ない。
130) 村上仁 前掲書 80) p.39
140) 島崎敏樹: 精神分裂病における人格の自律性の意識の障碍 (上) 精神経誌 50, 1949. の序論に次のように記されている:
我々の精神作用は、それが思考であっても動作であっても、すべて自我の活動に基づくと体験される。即ち自分が考えるのであり自分が行うのであって、自我が自主的に精神活動を営んでいると意識される。これが人格の自律性の意識である。
(中略)
精神分裂病という、人格それ自体を破壊する病になって、はじめて自律性Autonomieの意識の様々がはっきりとしてくるのである。
150) Kurt Schneider: Klinische Psychopathologie. 12. Unveränderte Auflage. George Thieme Verlag Stuttgart・New York 1980 (邦訳 針間博彦訳 『新版 臨床精神病理学』(原書第15版) 文光堂 東京 2007 p.104相当部分)に、自分自身の行為や状態が自分のものではなく、他者によってあやつられ、影響されたものであるという体験は、統合失調症特異性がきわめて高い自我障害であると記していると記されている。
160) 自我障害の脳科学的研究として、近年、Frith CD: The Cognitive Neuropsychology of Schizophrenia. Psychology Press UK 2015. ; Haggard P: Sense of agency in the human brain. Nat Rev Neurosci 18: 196-207, 2017. ; 前田貴記: Sense of Agency: 自己意識の神経心理学. 神経心理学 35: 178-186, 2019. など多数ある。ICD-11(2018年、WHO)には、Schizophreniaの特徴として、self-experience (e.g., the experience that one's feelings, impulses, thoughts, or behaviour are under the control of an external force) という記載がなされている。この記載はICD-10にはなかったものである。
170) 村上仁 前掲書 80) p.42
180) 安永浩 前掲書 60) p.31
190) 傷害被告事件竝附帯私訴[昭和6年(れ)第1305号 同年12月3日第一刑事部判決 棄却] 大審院判決 大審院刑事判例集 法曹界
200) 団藤は責任能力を「有責に行為をする能力」であるとし(団藤重光『刑法綱要 総論』創文社 東京 1957 p.197)、これは法に従って意思決定をする能力であると解されている(村松常雄、上村秀三『精神鑑定と裁判判断』金原出版 東京 1975 p.18)。
210) 井田良 前掲書110) p.201
220) 常習窃盗被告事件被告人●● 精神鑑定書 2018.4.25. (鑑定人 村松太郎)
230) 詐欺被告事件. 東京高裁平21(う)第2364号. 平成22年5月12日第3刑事部判決 = 判例タイムズ No1379 2021.11.15. = 詐欺被告事件被告人●● 精神鑑定 2009.5.19. (鑑定人 村松太郎)
240) 村松太郎: 裁判員裁判の功罪. 精神神経誌 123: 32-37, 2021
250) 中田修が次の通り紹介している。(中田修: 精神分裂病の責任能力への一寄与 精神医学10: 43-47, 1968)
Schneider K 「異論のない躁うつ病性相期や精神分裂病といった形の精神活動の病的障害が存在するならば、ひとはその程度と、状態と犯行の関係を考慮することなく、つねに免責(責任無能力)を推すであろう。これらの状態はたとえ軽度のものであっても、人間の本質と行為への測り知れない侵襲を意味するから、第51条第1項はつねに妥当である。」
Gruhle HW 「真の精神病(躁うつ病、精神分裂病、進行麻痺)がたしかに存在すならば、その犯罪の如何を問わず責任無能力すなわち第51条第1項が決定的に肯定されるべきである。いわゆる心理学的証明、すなわち、この精神病の特殊な形式と内容からまさにこの犯行が起こったという証明は、まったく余計なことである。真の精神病者はいずれも全般的に責任無能力である」
Mezger E 「真の精神病(器質精神病、中毒性精神病、躁うつ病、精神分裂病を意味する)は、例外はないわけではないが無条件に刑事責任能力を除外する」
260) 厚生労働省研究班(代表 岡田幸之): 刑事責任能力に関する精神鑑定書作成の手引き 平成18~20年総括版(Ver.4.0) pp.7-8
270) ただし、犯行時における重症度=病勢を、精神運動興奮状態や幻覚妄想状態という観点のみから判定することはできない。一見すると静穏でそれほど重症でないように見えても、当事者の内界は現実から著しくかけ離れた精神状態に陥っている場合がありうる。そうした例として、島崎敏樹が記載した睡眠中の内妻を絞殺したケース(「三郎」とされている)はきわめて示唆的である。島崎は前掲論文140)にこの犯行を「他律が衝動的動作」として現れた行為であると記している。
三郎: 事件は自分では不可抗力と思う。何かしらん自分の力以外のもので動かされた。手を下す前3,40分ためらっていた。女を危険からかばおうとする気持が自分にあった。女が自分に向って以心伝心に、誰かが二人を殺すと言っているように感じた。二人がねらわれていると感じた。女を殺さなければ自分が殺されるという風にひびいた。女を殺しお前も殺すといった。命令といってもよい。手向う余地は全くなかった。せざるを得ないというような力が動いた。「女を殺せ」という声がひびいた。細紐でしめて殺した。あとは平気で、芝居でもしているようだった。今でも可哀そうなことをしたとは考えるけど、自分がしたという実感はない。何となく不自然だ。
このCase三郎について島崎は、「行為の結果には意義があるが、主観的には無意味と感じられる」ことを指摘し、統合失調症の「衝動的動作」の中には、自分がしたのではなく外からさせられたと感じられているものがしばしばである」と述べている。
三郎は「女を殺せ」という幻聴を体験している。しかし殺害という行動は、この幻聴と結びつけるのではなく、他律の結果とする方が本質を突いている。このケースをそのまま引用している安永浩も、幻聴にはあまり言及せず、「芝居でもしていたようだった」「何となく不自然だ」という部分を重視している (安永浩 『分裂病の症状論』 金剛出版 東京 1987 p.69)。安永はこれを「自分の意思行為でありながら、自分の、という実感がない、さらには不可解な外の力で意思そのものが操られている、と反映知覚されるような意識」と呼んでいる。
犯行時についてのこの三郎の回想は、限界的可知論として50に示した(1)(2)(3)の中の(3)の体験を語ったものであると言えよう。繰り返し述べた通り、また安永の記載からも読み取れる通り、(2)のメッセージ(Case三郎では不明確な幻聴)がどのような形を取っていたかは重要でない。責任能力を考えるうえで最も重要なのは51でも指摘した通り(1)であるが、現在の精神医学は(1)について直接に語ることはできず、(3)などから間接的に推定することまでしかできない。
280) 責任能力を最終的に判断する権限が裁判所にあることは言うまでもない。ただし裁判所には、精神医学的な判断を覆す権限はない。覆せる場合があるとしてもそれは特殊な状況に限定される。最高裁判所の2008年の判決で述べている通りである:
最判平20.4.25. 刑集62巻5号1559頁: 責任能力判断の前提となる精神障害の有無及び程度並びにこれが心理学的要素に与えた影響の有無及び程度について、専門家たる精神医学者の意見が鑑定等として証拠となっている場合には、鑑定人の公正さや能力に疑いが生じたり、鑑定の前提条件に問題があったりするなど、これを採用しない合理的な事情が認められるのでない限り、裁判所はその意見を十分に尊重して認定すべきである。
290) 器物損壊、傷害致死被告事件. 東京高裁平31(う)第426号. 令和3年3月9日第10刑事部判決
300) 中島直: 内因性概念と司法精神医学. 臨精医 40: 1097-1103, 2011.